2024年の振り返り(後半の半年)

雑記

さて、駆け足で2024年の前半の振り返りをしてきました。

前半についてはこちらからどうぞ

とにかく4月からは初めてのことばかりで、ワクワクしちゃいました。

「がん」というと、多くの人はこの世の終わりのように落ち込んでしまいがちですが、私は違いました。それは、癌という病気は早期発見・早期治療で完治する病気であることを知っていたからです。

もちろん不安がなかったかというと嘘になりますが、きちんと先生の話を理解できたこと、わからないことは自分で調べたり、詳しい人に聞いたりして自分なりの理解を深め、病態を正しく理解することが出来たから、そこまで絶望的に落ち込むことはありませんでした。

仕事の特性上、医療情報には一般の人よりも多く触れますし、Drを含む医療従事者と話をする機会も多いので、結果的にそれが不安を払拭するのに一番良かったのかもしれません。

最先端の治療を自分の体で体験し、最先端の治療のおかげで自分がドンドン元の状態に戻っていくその過程はシナリオ通りで、とても感動的でしたのでその経験がワクワク感を生み出していたのかもしれません。

2024年7月〜9月

この時期になると一時的な人工肛門(ストーマ)にも慣れてきて、オストメイト(排泄口造設者)と言わなければ気付かれないくらい、普通の生活をしていました。

人工肛門になる前は、漏れちゃったり、匂いがしたらどうしようなどと心配しましたが、実際は何の問題もありませんでした。

ただ、排泄物を貯める袋の交換をケチった時(袋も¥800/枚くらいします)に、皮膚と袋の間から少し漏れちゃって慌てたことはあります(笑)。

そんな時は慌てずにトイレに入って、新しい袋に交換すれば何の問題もありませんでした。街の中にもオストメイトトイレがあちこちにあるので安心です。

さぁ、人工肛門ともサヨナラの時が来ました

さて、3ヶ月のストーマ生活も8月で終わりでした。

直腸を切除し吻合した腸管が落ち着くまで人工肛門でしたが、いよいよ8月下旬に元に戻す手術を受けることになりました。

簡単にいうと、手術は体外に出ている人工肛門(小腸)の周りを切って、そこから小腸を引っ張り出して、繋いで元に戻すというもの。

綺麗な写真ではないですが、左のように小腸の一部を体外に出して人工肛門として使用していましたが、最終的には繋いで体内に戻して皮下で閉じたので、右の写真のようになりました。

最終的には皮膚が盛り上がってきて、写真のような窪みもなくなり普通に戻りました。

普通のおじさんのお腹に戻りました・・・・

人工肛門とはサヨナラしたけれど・・・

人工肛門とはサヨナラしましたが、新たなお友達が出来ました。それは

「トイレさん、こんにちは」

でした。とにかくトイレに行く回数が激増しました。

直腸には「便を溜める機能」が備わっているのをご存知ですか?

普通の人は、就寝中に消化が終わった排泄物がドンドン直腸で溜められて、朝気持ちよく排便されます。しかし、直腸がない私はその機能を失ってしまいました。

事前に主治医から排便回数が多くなること、1回の排便の量が少なく、何度も何度もトイレに行きたくなること、行っても出ないことなど、排便に関するトラブルについては聞いていましたが、まさかここまで・・・と思うほどでした。

オナラなのか、便なのか?

そんなこと以前は当たり前のようにわかっていましたが、今はよくわかりません。

突然便意がやってきて、トイレに駆け込むけどオナラだけ。

トイレから出てきたばかりなのに、また突然便意が襲ってきて慌てて逆戻り。

長距離の運転では、ナビにコンビニを表示させたり、道の駅を表示させたり、緊急事態に備えながらの運転が続きます。

この状態も半年から1年経過すれば落ち着くとのことですが、私の場合はもうしばらくかかりそうです。

こういう状況なので、実家までの道中どこにトイレがあるかはしっかりと把握しています(笑)。

7月から9月までの帰省回数

8月にストーマ閉鎖のための手術を受け、約1週間入院したのでこの期間の帰省回数はそこまで多くはなかったです。

7月(6〜8)・8月(10〜12)・9月(7〜8・21〜23)

理想はこのくらいなんですが、実際にはやらなくてはいけない事がたくさんあって。

2024年10月〜12月

ようやく暑さも落ち着いてきて、いい季節になりました。

87歳になる父が今まで1人で管理してきた母方の実家ですが、年齢的にも体力的にももう父が管理するのは難しくなってきたので、今年から父に代わって管理をしています。

現在の住まいから車で約40分の道のりも、高齢の父には危ないのでそこに行かせないためにも私が代わって管理することにしました。

暑い時期は草の伸びも早く、ほぼ毎週のように帰って手入れをしないとすぐに荒れてしまいます。

土曜日の朝に熊本を出て、昼前に宮崎の実家に到着し、そこから40分かけて移動してからの作業。

夕方まで作業をして実家に戻り、翌日の昼に宮崎を出て熊本に夕方到着し、翌日からまた1週間仕事というこの生活は、さすがに疲労も溜まり一番辛い時期でした。

先祖の土地を守ること、墓を守ること、今まで父が黙々とやってきたことを、せめて父の目が黒いうちはそのまま引き継いで安心させてあげたい!

この想いだけで、熊本⇄宮崎を行ったり来たりしています。

これに加えて、父の要支援の行政申請や面談、さらには実家のお掃除をシルバー人材センターの方にお願いするための打ち合わせや面談もあり、とにかく辛い期間でした。

無理をした結果なのか、それともただの偶然か?

平日はフルタイムでの仕事、週末は熊本⇄宮崎の移動と作業、そしてまた平日・・・の繰り返しは、精神的にも肉体的にも辛いものがありました。

とにかく実家の日々の生活が落ち着くまでは(お掃除の仕組みが出来上がるまでは・・・)と、頑張っていた矢先に、突然体が悲鳴を上げました。

下血しちゃいました

下血しちゃいました(汚くてすみません)。

今までの疲労蓄積が原因なのか、それともただの偶然か?

木曜日の夜の下血してそのまま病院に行ったところ、すぐに入院。

翌日の検査では出血源は見当たらず、様子を見ていましたが土曜日に再度出血があり、そのまま緊急で内視鏡的に止血処置をしてもらって落ち着きました。

数日間絶食の後、重湯からお粥になり退院まで1週間を要しました。

結果的に強制的に休んだので、その後の体調は良くなりました。

やっぱり無理はいけませんね。

もう何もないだろうと思った年末に、トドメの一撃!

ようやく出血も落ち着き、通常の生活に戻っていよいよ年末を迎える時期になりました。

今年は我が家も代替わりをして、年末年始の準備は私たち夫婦がすることになりました。

お節料理の手配をしたり、必要なものの買い出しリストを作ったり、お餅を飾る打ち合わせをしたりと、一通り手順を確認して迎えた仕事納めの日。

さぁ、1日熊本でゆっくりして宮崎に帰省しようと思っていた仕事納めの日の夜、何だか急に体がだるくなり、そして熱っぽくなりました。

まさか・・・

翌日の土曜日に朝から40℃を超える熱が出て、キツくてキツくてたまりませんでした。

発熱外来を受診した結果、インフルエンザでもコロナでもないとの診断。

なぜか気管支炎からの高熱だろうという事で、カロナールと気管支炎を抑える薬と抗生剤をもらって帰宅後、薬を飲んで休んでいました。

日曜日になっても全く熱が下がる気配もなく、高熱にうなされる状態が続いていました。

月曜日になっても熱がおさまらないので、夜に救急外来を受診。

19時に受付を済ませて、診察をしてもらったのが25時(翌日の午前1時)で診断の結果は「インフルエンザA型」。そのまま薬局で特効薬をもらい自宅に戻ったのが午前4時。

その間ずっと付き添ってくれた妻には感謝してもしきれません。

大晦日はベッド中で過ごし、年越しは熊本。

熱が下がって1月3日に実家に戻ってお正月の挨拶をしましたが、そこにはお餅もなく、年越し蕎麦もなく、ただ普通の食事が並んでいるだけでした。

最後の最後にインフルエンザ。

まさに2024年の締めくくりにふさわしい一撃でした。

10月から12月までの帰省回数

この時期は母方の実家の手入れの他に、父の生活支援に関する行政との打ち合わせ、実家の掃除にシルバー人材センターの派遣を要請するための打ち合わせなど、色々重なり意地になっていましたので多いです。

10月(5〜6・12〜14・19・29〜30)

11月(2〜3・10〜11・30〜12/1)

12月(14〜15・21〜22)

これだけ週末に帰れば、体も悲鳴を上げますよね。

おしゃれな雑誌には、憧れの東京⇄長野の2拠点生活・・・なんて記事を見かける事がありますが、私も言わば熊本⇄宮崎の2拠点生活をしています。

実際にはそんなに甘いんじゃなく、時間に追われる2拠点生活。

実際には土曜日の昼に実家に到着して、お昼ご飯の準備。食事が終わると私は移動、妻は両親の相手と夕方から晩御飯の準備。翌朝は朝ご飯の準備をして朝ごはんを食べ、時間が来たらお昼ご飯の準備をして一緒に食事をして、午後から熊本へ移動し、日曜日の晩御飯は決まって「ほっともっと」という生活です。

憧れますか・・・?

終わりに

2024年は本当に色々あった年でした。

でもこれだけは断言できます。

とにかく一生懸命やった1年だった。

両親のケガと入院、それぞれへの見舞い、できるだけ1人にしないための帰省、母方の実家の手入れ、春と秋のお彼岸のお墓の手入れ、お盆のお墓の手入れ、草刈り、垣根の剪定、実家の庭の手入れ、芝刈り、家の片付け、ゴミ出し・・・。

2025年は少しペースを落とそうと思います。

そして、年度が変わる4月から母方の実家を売りに出すための準備を始めます。

なぜ4月以降なのかというと、「もう有給休暇が残っていないから」です(笑)。

自分の入院や父の外来の付き添いなどで、今日時点で37日分の有給休暇を使ってしまい残り3日。

だから4月以降に本格始動します。

母方の実家に興味のある方は写真などお送りしますので、ぜひご連絡ください。

屋敷のそばに畑があり、そこで父はトマト・オクラ・キュウリ・ナス・スナップエンドウ・トウモロコシ・里芋・大根・ほうれん草などを作っていました。

また、少し坂を登ったところに別に大きな畑があり、そこではラッキョウ・ジャガイモ・里芋・椎茸などを作っていました。

今は何も植えてありませんが、定期的に草刈りをして畑を耕してあります。

話が逸れましたが、2025年は自分のために時間を使えるようになりたいですね。

自分の体のこと、健康のこと、スキルアップなど頑張っていきたいです。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

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